『さらば平成三十年』<2018年12月31日(月)>
平成の時代の終わりにあたり、『筆洗』(181231)はそのニックネームを考える。「明治ハイカラ」「大正モダン」「昭和元禄」。「思い付いたのが『平成バブル』とはあまりにも陳腐だが、はじけて消える泡やしゃぼん玉のイメージが頭から離れぬ。・・・高い経済成長は見込めぬ。高齢化、人口減。戦争はなく明日のコメにも困らぬ。それでも消えぬ先行きの不安はしゃぼん玉がしぼんだ後、次の道が見えぬという心細さのせいかもしれぬ。平成はそういう決して明るくない分岐点に立っていた気がする。さらば平成三十年。なんだかおまえがいたわしい。
(JN) 昭和は長かった。平成の倍の長さがあり、戦前、生成および発展と大きく3つほどに分けられる。前半に目を瞑り、後半の景気を思い元禄であったろうか。平成は昭和の没落であったであろうか。昭和の遺産を食いつぶす時代であったろうか。次の時代には昭和の遺産はない。団塊の世代の時代の終わりである。「筆洗」は「平成バブル」とも表現している、これは、数年置いてみないと何とも言えないが、今、私が思うに、思うに後半の政治経済は、腐敗に満ちていたので、そんなネーミングがないだろうか。そして、これを新たな時代で払拭したい。さて、ゆとり世代が新しい社会を生み出して行くであろうか。