憲法談議を重ねた明治人の熱がほしい

(日経「春秋」2014/5/16付) 明治のむかし、自由民権運動のころに各地で憲法草案づくりが盛んになった。その数60本余に及ぶという。なかでも異彩を放つのが、東京都あきる野市に原本が残る「五日市憲法」だ。この草案は、自由や人権を重んじるきわめて先進的な内容だった。皇后さまも、昨年、「近代日本の黎明(れいめい)期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした」と。現行憲法だって同じかもしれない。占領軍の押し付けを問う声があるが、そこにはかつて潰(つい)えた理想も映されていよう。集団的自衛権は行使可能か、可能と解釈するなら根拠は何か。ともすれば迷走するこのテーマだ。向き合うのに、炉端で侃々諤々(かんかんがくがく)の憲法談議を重ねた明治人の熱がほしい。
(JN) 憲法は、国民を国家から守るためにある。その憲法が、内閣それぞれにより解釈を変え、行政執行されるとはどういうことなのであろうか。それは、憲法ではなく、国家に都合の良い法律である。一時の勢力で憲法解釈が帰られるのではなく、冗長に熟議を重ねて行くべきである。また、その一時の状況のために解釈されるのでなく、未来の人々の生活を十分に考えることである。自民党やそれに追随する党は、政党として十分に考え、政府の行動を善きものにして欲しい。勿論、野党も同様である。都合のいい解釈はこまる。我々自身も論じ合い、その方向性を考えよう。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO71293180W4A510C1MM8000/