『きょうは司馬の命日、菜の花忌』<2018年2月12日(月)>
「兵庫県・淡路島ではすでに咲き誇り、花の黄色が海の青に映える。司馬遼太郎が「菜の花の沖」で波乱の人生を描いた」。昨日は建国記念の日、本日は司馬遼太郎の命日、『余録』(180212)は、昨今の憲法改正や戦前回帰のムードを思う。司馬は「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」。また「『菜の花の沖』にこうある。菜の花は実を結べば人の手を経て油になり、諸国へと船で運ばれる。遠い北方の島の番屋で、夜なべ仕事の網繕いの手元を照らすこともある。世界はそんなふうにつながっている」。
(JN) 司馬遼太郎の影響で歴史が好きになったのか? 歴史が好きだったから司馬遼太郎を好きになったのか? 1970年代は随分と司馬遼太郎の作品を読んだ。そのため司馬史観が刷り込まれているかもしれない。小説の世界であるのに、史実であるかのように理解し、その世界を更に自分で膨らましていく。楽しい時間である。どの時代のどこにでも、自分を存在させ、感動する。元気をもらい。司馬さんの正義をうけて、葛藤する。テロリストのつくった明治政府、この日本はどこへ向かうのか。日本はまだ坂の途中なのか。もう下っているのか。さて、本日は司馬さんが与えてくれた世界に感謝し、「菜の花の沖」を読んでみよう。「晩春になって、あぜ道をゆくひとびとが汗ばむころになると、全島が菜の花の快活な黄でうずまり、その花ごしに浦々の白帆が出入りした。------」