『あすは、時の記念日。時分秒ではなく、「充実」という単位ではかる時間を持ちたい。』<2017年6月9日(金)>
長田弘さんの「グレン・グールドの9分32秒」を「筆洗」(170609)は紹介する。明日は時の記念日にこの詩を思う。「時間とは『一人のわたしの時間をどれだけ充実させられるかということでしか測ることができないもの』。<芸術は完成を目的とするものではないと思う。/微塵のように飛び散って、/きらめきのように/沈黙を充たすものだと思う。/あらゆる時間は過ぎ去るけれども、/グールドの9分32秒は過ぎ去らない。/聴くたびに、いま初めて聴く曲のように聴く…/人生は、音楽の時間のようだと思う>」。
(JN) マイスタージンガーの前奏曲、と聞いただけで、頭の真ん中で勝手に演奏が始まる。グレン・グールドのピアノでのワーグナーはまだ聴いたことがないので、例えばシノーポリ指揮ニューヨークフィルによるものが流れてくる。音楽は一定の時間の中で行われるが、その間は時間を忘れさせてくれる。特に、コンサートホールに入れば、どこかの宇宙へと心は飛んでいく。大体、時間などと言うものはないはずである。人類が勝手な都合で作り出した数値の商品の一つでもある。灰色の男たちが時間の価値を説明し、その時間節約を我々に要求するが、それを鵜呑みにしてはならない。でも、時間は大事にしなければならない。充実した時のために、明日は時の記念日、その在りもしない時について考えるより、ワーグナーの響きに時を忘れよう。否、家族との団欒の時間を持つべきか。『モモ』をこっそり読む時間にしようか。いやいや、時間という表現以外に何か他の言葉がないのか。