卒業式が全国で相次ぎ中止になったことがこれまで何度かあった
(日経「春秋」2015/3/9付) 「一人歩きを始める/今日は君の卒業式」。さだまさしさんの歌、恋の終わりを描いた作品だと。どうしようもない一つの区切りであり、悲しいような、弾むような響きがある。それが卒業に例えた理由だそうだ。通った学校が違っても共有する体験だからこそ比喩が成り立つわけだ。当たり前のようなこの式典だが、有本真紀さんの著書「卒業式の歴史学」によれば、義務教育での盛大な卒業式は、日本特有の学校文化なのだという。明治の半ばに、いまのような形の式次第が、ほぼできあがっていた。この日のための唱歌もどんどん作られ、終戦で紀元節などの学校行事が消えても卒業式は残る。「最も成功した儀式」だと有本さんは語る。私たちの感性に合う部分が大きいのかもしれない。その卒業式が全国で相次ぎ中止になったことがこれまで何度かあった。かつてなら戦争、近くは4年前の東日本大震災だ。今年の春も方々の学びやから卒業を祝う歌が無事に聞こえてくることだろう。その喜びをかみしめたい。
(JN) 卒業式、なぜか自分が卒業するわけでなくとも、込み上げてくるものがある。校歌を歌う段階がピークであろうか、涙声になってしまう。それは、こちらの勝手な思いがあるからであろうか。やはり、別れの時は、その別れがどんな理由であろうと悲しい。この卒業式、もう直ぐである。何度準備しても、同じことを行うのであるが、慣れることのないこの儀式である。花粉飛び交う中で苦しいが、全力で恋人を送り出したい。そして、その1週間後には入学式、次の恋人来る。この儀式が日本中で、永遠に中止になることなく、続けて行きたい。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO84116600Z00C15A3MM8000/