開業100周年の駅、今日も人が出会い、新たな記憶を刻んでゆく

(日経「春秋」2014/12/20付) 駅は巨大な記憶の箱である。大正11年3月、19歳の娘は夫の待つ欧州へ出発した。停車場で父は皆の後ろにいた。それが最後だった。娘は思い出を書いて、作家になった(森茉莉「父の帽子」)。翌年、関東を襲った大地震に耐えた駅舎を俳人高浜虚子は見ている。百年前の完成当初は、「こんな広い不便なものを造ってどうするつもりか」というつぶやきも聞いた。すぐに乗降客が増えて、「もう少し広くしておけば」に変わったと回想している。東京大空襲でドームが焼け落ちた。詩人及川均は駅前で玉音を聞いた。記憶は詩になった。「赤錆(さ)びた鉄骨の間から空が陥(お)ちていた。莫大量の重さをせおつて。そして風呂敷包をさげておれは歩きだした」。一昨年、ドームを復元し創建の姿に戻った。暑い日で帽子を置き忘れた。いまも側を通ると、どこかに父の帽子があるような気がしてくるから不思議だ。開業100周年の駅で、今日も人が出会い、新たな記憶を刻んでゆく。
(JN) この東京駅ができたころは、巨大に思えたろうが、駅とは変化するもの、縦にも横にも広がって行った。この駅は、今後、どのように成長をして行くのであろうか。長距離から短距離まで、日本の地上大量移動交通の中心である東京駅、その機能はまだ拡大して行くのか。地方を活性化しようと、日本列島を改造しようと、高速鉄道を拡げてきたが、反って地方は静かになって行った。東京に集中して行く人と資本をこの駅は、ずっと見てきた。これから100年間は、地方創生が成功して、東京から人々や資本が地方に流れて行くことを東京駅は、記憶して行くのであろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO81154430Q4A221C1MM8000/