「日本人よ、わたしたちよ、これでいいのだろうか」

(日経「春秋」2014/1/26付) そのドキュメンタリーは怒りに満ちている。大島渚さんが1963年の「忘れられた皇軍」。ずっと再放送の機会に恵まれてこなかった作品が先ごろ、監督の一周忌に合わせて半世紀ぶりに電波にのった。旧日本軍の兵士として戦い、手足を、両目を失いながら、どこからも補償を受けられずに戦後を生きる在日韓国人たち――。仲間同士の貧しい飲み会。軍歌と手拍子。そして眼窩(がんか)からあふれる涙。松竹ヌーベルバーグの旗手として邦画界を揺さぶった監督は、60年安保闘争を描いた「日本の夜と霧」の上映中止騒動を機に独立してイバラの道を歩む。送り出す作品はことごとく問題作と呼ばれ、そこには怒りとかなしみが横溢(おういつ)した。「忘れられた皇軍」はわずか28分。「日本人よ、わたしたちよ、これでいいのだろうか」。作品は戦後18年の平和な街の表情を追い、こう訴えて終わる。怒りというものの凄(すご)みを知るのである。
(JN) 日本が韓国に行ったことを日本が受けていたらそれは60年以上経とうと忘れることができるだろうか。行った側は国としての対応は終わったと平気で言っているが、日本の民であったら仕返しを考えるのではないか。米国のご機嫌の伺いながら、何だか勇ましい態度を取ることでよいのであろうか。まずは過去の事実を理解し、それを受けた国々の人たちの考えを理解するのは難しいが、これを自分たちが受けていたらどう思うのか、考えてよいのではないか。文字からそれを理解することは時間と労力がかかる、そのために映画がある。それは映画作成者の理解が大きく反映されてはいるが、それも踏まえてじっと観てかが得てもらいたい。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO65893890W4A120C1MM8000/