「襟裳岬」の何もない春、という詞に地元が怒った例もある

(日経「春秋」2014/4/20付) 若い教師が地方都市の旧制中学に赴任した。ところが生徒からは嫌がらせを受け、あれこれトラブルが続き、短期間で辞職、東京の実家に戻ることを余儀なくされた。「坊っちゃん」、舞台は漱石が実際に教師を務めた愛媛県松山市とされる。いま松山では、この作品の名を掲げた文学賞を設けるなど町おこしに大いに利用している。ただし10年ほど前のアンケートでは、地元が悪く描かれており不快だという人も少なからずいた。村上春樹さんがおととい発売の短編集で、2作品について申し入れを受け雑誌発表時から内容を書き換えたと説明している。1つはある北海道の町ではタバコのポイ捨てを「みんなが普通にやっている」のだろうと主人公が思う場面で、架空の町に変更。もう1つはビートルズの歌の関西弁での替え歌。ぐっと縮めている。村上さんは関西出身で北海道とビートルズに愛着を持っているのも有名な話だが、当事者や関係者は許せなかった、ということだ。「襟裳岬」の何もない春、という詞に地元が怒った例もある。揶揄(やゆ)や反語も駆使しつつ人や社会の素顔を描くのが文学の豊かさだが、一歩間違えれば誰かを傷つける。難しいものだ。
(JN) 何気ない会話で、相手に不快感を与えてしまう。当方、未熟者故、会話や文章において、やってしまう。それを何とかしとうと繕いをすると、傷口は、かえって広がり、状況は悪化する。繕ってはダメなのである。何も悪意はないのであるが、互いの考えの違いを理解しなければ、対立しあうだけである。それは多様なわれわれの定めであり、それを乗り越えて行くところに、人類の発展があろう。大きな話をすれば、民族、宗教及び国家等の間で起こるトラブルも、繕ってはだめなのであろう。根本的に、お互いに違うことの理解からであるからこそ、松山の中学校の生徒たちは、新任教師に手荒なことをして、自分たちを表現したのだ。襟裳岬も、岡本おさみに取っては何もないのであるが、そこには待ちに待った春であり、期待がいっぱいある春なのである。自分たちと違う考えを排除するような考えは、島国根性の中にあったなら、それは是正していかねばならない。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO70145100Q4A420C1MM8000/