「最後のヒロシマ・パイロットの死」

(日経「春秋」2014/8/8付) 1959年、精神錯乱だからと米軍の病院に収容されていた元パイロットに手紙が届いた。「私たちが、このお手紙をさしあげるのは、私たちがあなたに対して敵意など全然いだいていないことを、はっきりと申しあげたいからでございます」。差出人は広島の少女一同。そして受取人はクロード・イーザリー。原爆を投下したB29エノラ・ゲイとともに作戦に参加した指揮官機ストレート・フラッシュの機長である。戦後も記憶に苦しみ続けたイーザリーは、少女たちの真情にすがるような気持ちをユダヤ人哲学者との文通で明かした(「ヒロシマわが罪と罰」)。「最後のヒロシマパイロットの死」。セオドア・バンカーク氏の訃報が先週流れた。原爆投下に直接関わった搭乗員はこれでいなくなったという。「原爆が戦争を終わらせた」「後悔はしていない」と回想した多くの搭乗員も、78年に死ぬまで苛責(かしゃく)に苦しんだイーザリーのような人も、証人であり語り部である。しかし、我々が広島、長崎から聞かなければならない声がある。世界に聞いてもらわねばならぬ声が、もっともっとある。
(JN) 兵隊駒を動かす者は、どこまで戦争の現実を知るのか。何のために戦争を続けるのか。戦争の異常な現実を知ってまで、戦争を望むのか。私のような戦争を体験していない日本の人口の多くを占めるようになり、安倍首相のような考えを持つものが多くなってくる。戦争は、人々を悲惨な状態へと追いやる。それは体験した人々しかわからないであろうが、戦争を現実に経験をする必要はない。そのためには、戦争によるその現実を知り、そして理解しなければならない。そのためにも、記録やインタビューが必要であり、それを伝えて行かねばならない。我々も、嫌なものを見て、そして聞かねばならない。市民を巻き込む戦争、その駒を動かす者は決して勇ましくはない。原子爆弾など不要である。戦争を動かした者や原爆の使用を認めたものは罰せられるべきであった。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO75401280Y4A800C1MM8000/