小中学校の「道徳の時間」を「特別の教科」に格上げ?

(日経「春秋」2013/11/13付) 19歳のザッカーバーグ青年は、大学のコンピューターに侵入して女子学生の写真データを手に入れ、人気投票のサイトをつくってしまう。やがてフェイスブック誕生につながるのである。この手の逸脱は、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に考えたら×が3つくらいつくだろう。とりわけ道徳の授業で子どもの判定をしなければならない、となれば悪い面ばかりが指摘されそうだ。小中学校の「道徳の時間」を「特別の教科」に格上げし、検定教科書の使用や記述式評価の導入を求める案が浮上していると聞き、そんな心配がつのる。数値評価は難しいから記述式で、新たな教員免許は設けず学級担任が受け持つといった折衷案である。国の検定を通った教科書でそれを説き、心に優劣をつけるならかえって徳育を矮小(わいしょう)化しよう。人間のさまざまな面を、さまざまな目でみてこそ「おもしろいヤツ」が育つのだ。ザック青年の不道徳のなかにキラリ光ったものを受け入れた度量が、「特別の教科・道徳」にあるか。
(JN) 道徳というものを国が押し付けたら、それは道徳ではなかろう。教科として子供たちに教え込むとは、アンドロイドの兵隊作りであろうか。右が道徳に沿っている。左は不道徳とでも、決めて行くのであろうか。市民には様々な道徳観があり、それをそれぞれの市民が受け止め、お互いの存在を認め合っていくものである。国が定めた道徳を理解できなかったりすると、評価されなかったり、いじめにあったりすることになるのか。日本の道徳とことなる道徳を持つ他国は、不道徳な国と教えて行くのか。とっても良い子の国になりそうだ。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO62502710T11C13A1MM8000/