多様な価値観に誠実に向き合い、考え続ける姿勢を養う

(朝日「天声人語」2014年10月23日(木)) 作家の三島由紀夫は若者に向けて、「教師を内心バカにすべし」と説いた。先生とは生徒に乗り越えられるべき存在なのだと。少年の悩みを大人は理解できない、いかに生きるかは自分で考えよ、教師に理解なんかされてやらないぞという気概を持て、と。肝心なのは「内心」で思うことで、行動にあらわすのはただのおっちょこちょいだ、と釘も刺している。道徳が実は逆説をはらむことを読者に示す。不道徳に慣れて抵抗力を身につけよ、なぜなら善良一辺倒な人ほど悪徳への誘惑に弱いから、といった具合だ。小中学校の「道徳」が教科に格上げになる。中央教育審議会がおととい答申した。第1次安倍内閣では頓挫した政権の悲願だ。対立する多様な価値観に誠実に向き合い、考え続ける姿勢を養う――。答申の一文に二言がないことを願う。三島の逆説をもう一つ。人としての優しさは大人のずるさと一緒にしか成長しないものだ――。徳目を一本調子に説教されても身につくものではない、という明察である。
(JN) 道徳の授業をいうものが小中と時間割にあったが、そんな内容の授業が行われていただろうか。現場の先生方の抵抗か、道徳というものが授業として難しいのか。でも、不思議と覚えているものが一つある。ひょっとしたら記憶違いかもしれないが、池田潔氏の『自由と規律』について話し合った覚えがある。結論は、覚えていない。否、結論は出していないのか。思うに、道徳はそれぞれの人たちが生活して行く中で培われていくようで、授業でちょっとやったから押し付けられるものでもないであろう。道徳は内面のものであり、講義して教えられるものではないであろう。但し、不道徳な行動のような表面的なことや礼儀は伝えられるであろうか。地域や時代が異なれば、道徳も変わることも、伝えることはできようが、それらを良い悪いと押し付けることもできない。否、こういう発言自体も押し付けだ。
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