簡易宿泊所の火災、問題は施設の防火体制だけにとどまるまい
日経「春秋」(2015/5/21付)に、川崎での簡易宿泊所の火災の問題について、高齢者問題の一例として指摘している。「戦後70年を振り返れば、火災の歴史も社会の移り変わりと無縁でないことがわかる。高度成長期には、ホテル、デパート、雑居ビル、カラオケ、個室ビデオなどで。そして近年は「高齢者」「社会的弱者」。グループホーム、この日曜日、猛火に襲われたのは川崎市にある2棟の簡易宿泊所だった。共通するのは比較的安い料金で利用できる一方、行政の規制や指導が届きにくい点にある。宿泊名簿と死傷者の数が合わず、数日たってもなお被害者の数さえはっきりしないことが悲惨さを際立たせる。これもいまの社会の断面に違いない。簡易宿泊所はかつて、地方から集まった労働者らが寝泊まりする場だった。現場を転々として年を重ね、体の自由がきかなくなってそのまま住んでいる例もあるという。高度成長を支えたであろう人々が、見守られることもなく仮の住まいで命を落とす。問題は施設の防火体制だけにとどまるまい。やりきれない話である。」
多くの方々の犠牲で環境が改善され、今、私たちは生活できている。火災だけでなく、様々な事故、自然災害、基地問題、政治・戦争等、その犠牲者は、それぞれの時代の弱者である事が多い。この犠牲は予測できることであるのに、改善されていない。犠牲者が出てから問題視される事の繰り返しである。まだまだ日本に住む者は、自分だけで精一杯なのか。否、私たちはそれで良しとしているのではないか。弱い者同士の協力関係がなく、足の引っ張り合いをしてはいないか。弱いものをそれぞれの集団で助けるのではなく、排除する。これを「いじめの展開」であるというのは、飛躍しすぎかもしれないが、これが日本の姿である。それが我が姿でもあり、何とか変えて行きたい。個々の私たちは、身近な小さなことからそれを意識し、惻隠の精神をそれぞれに持ち、互いに助け合うべきである。時間はかかるが、私たちの心の中からも変えて行かないと、住みやすい社会へと、社会全体の構造は変えられない。これは善行ではなく、弱者が生きる術である。