人間の方が技術の部品と化し、ただ酷使されている

朝日新聞天声人語」2014年8月19日) 小中学校の同級生と久しぶりに会い、いまは大学の哲学教師だと近況を報告した。相手は驚き、そういえばお前は子どものころから忍術が好きだったと応じた。「哲学なんて半分詐欺のようなことをやっていて」と語ったこともある。その木田元(きだげん)さんが亡くなった。戦後、テキ屋の手伝いをしたり、米の闇屋をしたり。東北大に入学するまでは、綱渡りのような暮らしだった。それが人間的にも学問的にも幅の広さをもたらしたのだろう。未来を見通す目を持っていたというべきか。科学技術の肥大化に以前から警鐘を鳴らした。技術を制御できると考えるのは人間の「倨傲(きょごう)」でしかない。技術は人間の思惑を超えて自己運動していく。畏敬(いけい)しながら警戒せよ、と。ハイデガーの文明観を踏まえて練り上げた木田さんの思想を3・11が裏付けた形だ。人間の方が技術の部品と化し、ただ酷使されているという告発である。晩年はだんだん仙人に近づいていると書いていたが、鋭い論考をもっと読みたかった。
(JN) 何の本で読んだか、木田元先生の戦前戦後とその生い立ちは、変化に富んでいた。その様々な経験が、先生の哲学を深いものにいして行ったのか、それはわからぬが本を読まない私でも、随分、先生の著書や翻訳書に接した。先生の経験は、それだけ、一般大衆にもわかるよう力を生み、また努力をされていたのか。でも、無構造の私には、メルロ=ポンティに何度か挑戦したが、まだまだ遠い存在だ。もちろん「反哲学」に行きつかない。残念ながら先生、お亡くなりになったが、様々なその論考は生き続けている。その論考に対して、わが身が存在する限り、少しでも反論できるようにして行きたい。木田先生、ありがとうございました。
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