(日経「春秋」2014/6/6付) 「憚(はばか)りだねえ」。この憚り、いまは聞かないので辞書を引くと「憚りさま」を縮めたもので、世話になったとき使うちょっとした挨拶代わりの言葉とあった。それに比べ、時代劇や落語で耳にする「憚りながらお奉行さま」の憚りは、恐縮しつつ物申す際の枕詞(まくらことば)だから分かりやすい。小欄など毎々「憚りながら」なのだが、さはさりとて、憚りながらとんと解せない話がここにもあった。長崎県の諫早湾干拓をめぐる政府の煮え切らぬ姿勢と、二つの裁判所の相反する判断である。堤防のせいで漁業に被害が出た、と漁業者が訴え、裁判所は「堤防の水門を開き海水を流せ」と国に命じた。それでは農地に被害が出る、と農業者が訴えると、別の裁判所が「開門はならぬ」と命じた。開け。開くな。両方の命令に同時には従えない政府は立ちすくむばかりだ。これでは、裁判所に頼ってラチの明きようがない。漁業者と農業者の間で汗をかき、関係をほぐすのは政府の責任である。憚りながら、三方一両損の妙案は出ないものか。
(JN) 裁判所は、法に基づき問題であることについて判断するところであろうが、その判断が事情によって異なったり、判断をせずに仲裁を進めたり、一般市民にはわからない。判断基準は、政府のご機嫌か、それとも国民のご機嫌をとるのか、その国民は海の民と陸の民で真っ二つ、先例に従い新たな解釈は生まれない。諫早湾の堤防は、この素人には憚りながら勝手な考えを述べるだけで申し訳ないが、裁判所は頃合いのいい仲裁で乗り切るのであろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO72353480W4A600C1MM8000/