「悲秋感覚」

(日経「春秋」2013/11/24付) 「あはれな 僕の魂よ/おそい秋の午后には 行くがいい/建築と建築とが さびしい影を曳いてゐる/人どほりのすくない 裏道を」。立原道造の「晩秋」。昭和戦前期、24歳で世を去ったこの詩人の孤独と傷心が言葉のひとつひとつに染みついている。秋の終わりには、もの思いが似合う。「悲秋感覚」が普遍化するのは平安時代古今和歌集あたりからだと。秋はもともと収穫を喜ぶ季節だ。万葉集に「悲秋」は少なく、農耕の場を離れた宮廷歌人たちが秋の感傷を生みだしたのではないか、と。昨今の秋は深まるのが遅く、なかなかその気分になれない。今年など10月半ばに真夏日を記録するありさまだった。ところがそう思っていたら季節はあっという間に相貌を変え、気がつけば冬の気配が濃い。「もうじき/たき火をはじめます/踏みつけられてしまうだけでは/落葉たちが嘆きます」。吉行理恵の詩「秋の葬式」。まもなく慌ただしい師走。このひとときに惜しむ、ゆく秋である。
(JN) 季節のな街に生まれ、文学感覚なく、詩がわからない、悲しい当方であるが、秋は太陽が遠くなり「悲秋」を感ずるところである。そして、季節を感じるためにできるだけ風のある丘や川など、自然に赴く。今はそこで秋を感ずるのだが、ここ数年秋に涙することが多くなってきた。花粉症は秋にもやってくる。悲しい秋である。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO63063970U3A121C1MM8000/