『隣近所の音をめぐり、お互いさまでは済まなくなった』

『隣近所の音をめぐり、お互いさまでは済まなくなった』<2017年9月4日(月)>
 近所の風鈴や火の用心や拍子木や除夜の鐘の音が迷惑である。『余録』(170904)は更に伝える。「東京都武蔵野市は来年4月に開園予定だった認可保育園について、近隣住民の理解が得られなかったとして開園を延期した。核家族化や少子化が進み、生活の中で聞こえる音は昔よりむしろ静かになったように思える。だから余計に音に敏感なのかもしれない。どうすればという知恵も浮かばない。人の心や暮らしのありようが、音の響きを変えていく。その現実を前に、耳を塞ぐことはもはやできない」。
 (JN) 音に対する人の感覚はそれぞれに違う。そして、同じ人でも時と場合によって音への感じ方は異なってくる。また、他人は我慢ができるし、慣れるという技を持ち合わせている。そういう意味では、世間の大人は幼児たちの声や鳴き声に慣れていないのか。何を言っているのだ。自分が散々発してきたことを迷惑とは、なんということでしょうか。大体、世間は音だらけで、耐えられない音などもうない環境である。音がない方がよっぽど耐えられない。でも、慣れろ我慢しろというのは戦前教育でろうから、何が耐えられないのか、なぜ耐えられないのか、真意は何か。耳を塞がずにそこを一つ一つ解決していく努力が必要である。そこには音以外に問題がなかろうか。