『なぜ容疑者は「灰色のバス」のハンドルを握ってしまったのか』

『なぜ容疑者は「灰色のバス」のハンドルを握ってしまったのか』

 「灰色のバスが使われたのはナチス政権下、『T4作戦』、障害者を価値のない生命、社会、民族への負担と見なし命を奪った」。「筆洗」(東京新聞/16/7/27)は、相模原市緑区の障害者施設が襲撃された事件について、「『障害者なんていなくなればいい』。その思い上がった供述、冗談ではない。容疑者は施設の元職員だった。だとすれば、障害者の生活の中に命の重さを感じる場面もあっただろう。世話をする家族の温かさも目撃したはずである。その幸福の光景をなぜ忘れて、『いなくなれば』のバスを運転したのか。それがくやしい」と。

 我々は、常に障害と闘いながら生きている。この障害は人様々である。また、自分の障害に気付かないこともある。「障害者なんていなくなればいい」と言うことは、人類の全てがいなくなれと言うことである。とにかく、人の生命を勝手に無くすなどという権限は誰にもない。助け合わなければならぬ者が、なぜにそのようなことになったのか。この勝手な振る舞いを、またここに至った顛末を明確にし、その罪の償いを如何にして行くのか、我々皆で考えて行かねばならない。(JN)