『原爆という「赤ん坊は申し分なく生まれた」』

『原爆という「赤ん坊は申し分なく生まれた」』

 「1945年7月中旬、ポツダム会談初日、チャーチルは『赤ん坊は申し分なく生まれた』」と述べた。「春秋」(日経/16/7/28)は「あれから71年――いぜん、大国のエゴがまかり通る。核実験を重ね周囲を脅す国がある。米大統領の広島訪問を機に、先制不使用を探る動きはあるが、軍縮はいっこうに進んでいない。広島、長崎の惨禍を経ても人類は創り出した超兵器を制御できずにいる。この夏も、巨大に成長した赤ん坊の長い影が地球を覆っている」と言う。

 国境というものがなければ、国家間の闘いは起きないのか。国境がなければ、大国も小国もない。でも、我々は線引きをしてしまうのであろう。私たちは国という居場所に制約されてしまう。だからそれは嫌だと言って、移民になる訳にもいかない。国境を侵す者は、裏切り者か、侵略者か。なぜゆえに、私たちは他国を侵略するのか。それは、短絡的な表現だが、他人のものを奪いに行くわけである。あるいは、奪われないために先に相手を我が物にするのである。やられたら、仕返しをする。その方法は暴力行為だけでなく、非暴力の政治行為を行うこともあるが、それにより国民は他国を憎むこととなる。ポツダムより71年、その様相は変わっていない。しかし、暴力手段の破壊力は71年前と規模が違う。その破壊力が行使されたとき、そこに残るものはなんであろうか。原爆は「赤ん坊」などではない。我々のエゴを固めた破壊兵器である。(JN)