『おのづから花なき年の春もあらば何に・・・』

『おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日を暮らすべき』
 「『桜心中』、金沢、夜の兼六園に、あでやかな女性が現れる。『殺される。切られて死んでしまう』」。「春秋」(日経/2016/4/3)は、桜の危機を伝える。「全国の桜が危機に瀕しているそうだ。高度成長期に植えた並木や公園の木も年をとった。病気や虫食いで、倒れる恐れも出てきたため、自治体などが伐採を進めている。謡曲西行桜」、『花見客が煩わしいのは美しい桜の罪だ』。そう詠う西行に、花に罪はない、煩わしいと思うのは人の心、と諭す。法師の別の歌が現実になる。『おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日を暮らすべき』」。
 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるが、1970年代の我が家の桜はアメリカシロヒトリだらけになり、火炎攻撃をしてみたが、手間がかかり、シーズンオフに切ってしまった。残念であったが、仕方がなかった。それからは、桜は見に行くものとなった。近年、公共の場の桜が撤去されることが多くあるが、これも仕方なきかなと思うところであるが、今後は、桜の成長と衰退を考え、未来の人々に「花なき年の春」を経験させることなく、「花見客が煩わし」さを経験していただこう。(JN)