桜は、ただ咲き、ただ散るだけ

(日経「春秋」2014/4/15付) 何十万枚か。それとも何百万枚だろうか。日本全国でどれだけ多くの人が、携帯でシャッターを切ったことだろう。人の背中を押し、何かせわしい気分にさせる霊力が、桜の花にはあるらしい。けれども、散る時期の桜の見事さも忘れたくない。最後の瞬間まで気力を張って咲き切り、ふと思い立ったかのように飛び去っていく。「風にちる花の行方は知らねども、惜しむ心は身にとまりけり」。西行は嵯峨の山奥の庵(いおり)で、ひとり静かに桜を楽しみたいが、都からガヤガヤと花見客が押しかけて来る。「人が群れるのが桜の欠点だ」とこぼすと、老人の姿をした桜の木の精が現れて、こう反論する。「わずらわしいと感じるのは人間の心の問題であり、桜の罪ではない」。桜の気持ちになってみれば、ただ咲き、ただ散るだけかもしれない。人間から見るとそれは出会いと別れになる。桜の季節が終わる。寂しさは胸にしまい、芽吹く若葉を見上げてみる。潔く生きる勇気が伝わってくる。
(JN) もう、花は散ってしまた。今年は、結構長く見られたのか、昨年のことはとっくに忘れてしまった。愚かなる私は、もう咲き乱れていた桜の姿も、脳裏から消えている。その瞬間を楽しむのが、花というものであろうか。目が痛くなるほどの明るさを与えてくれるこの桜たち、これは過去の人々が今の私たちに与えてくれた財産である。これを来年、再来年と未来でも楽しめるためには、良い環境づくりをして行かねばならない。未来の人々のために、出会いと別れ、良いものは残して行きたい。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO69875740V10C14A4MM8000/