『触発し、触発される』

『触発し、触発される』
 デザイナーの佐野研二郎氏の騒動について、朝日「天声人語」(2015年8月19日)は、幾つかの事例を出し、「触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある」と述べている。
 「模倣小僧」という芳しからぬ呼ばれ方をしたのは、若き十代の寺山修司だった。〈向日葵(ひまわり)の下に饒舌(じょうぜつ)高きかな人を訪(と)わずば自己なき男〉。これには俳人中村草田男に〈ひとを訪はずば自己なき男月見草〉の先行作があった。ほかにも多々指摘された。子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏(いちょう)ちるなり建長寺〉を発展させて詠まれたという。触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。」
 世の中、同じ人間同士、作るものは似てくる。お互いに影響し合い、また利用し、その融合されたものが新たな感覚を生みだす。佐野氏の出してきたものは、指摘があったものに似ている。でも、佐野氏が世の中に出したものが認められたのである。それはそれでいいではないか、と思ってしまうが、なんといってもこの資本主義の世の中である。その生みだされたものの価値が金額で表現され、その金額が何処へ流れるのか。人はこの商品価値に流されてしまう。そして、価値は、ある個人またはある団体に所属するのである。従って、この価値を生みだしたのが誰であるのかが問題となる。また、これを騒いでる連中が、世に話題を送り込み自分たちの存在価値を高めているのかもしれない。そんなお騒がせであるが、それでも、能力者は多分、そんなことに挫けず、良い作品を世に出して行くのであろう。(JN)