武蔵発見の報に接して胸をよぎる、歴史の痛苦である

武蔵発見の報に接して胸をよぎる、歴史の痛苦である
(日経「春秋」2015/3/5付) 捷(しょう)一号作戦――。昭和19年7月、日本海軍はフィリピンに迫る米軍を迎え撃つ覚悟を決めた。しかし3カ月後、レイテ島沖での実戦は戦艦3隻、空母4隻を失う大敗に終わった。「大和」とならぶ巨艦「武蔵」が最期を迎えたのはこのときである。沖縄への米軍上陸につながり、日本の敗北を決定づけたレイテ沖海戦失敗の象徴が、武蔵の撃沈だろう。その悲劇の戦艦が比中部シブヤン海の水深1千メートル地点で見つかったそうだ。まだ断定はできないようだが、戦後70年の節目に、深海に眠る武蔵がようやく孤影をうかがわせたのだろうか。捷号作戦には本土周辺での戦いを想定した二号、三号、四号も用意されていた。さらにはずばり本土決戦を指す「決号作戦」も大本営は考えていたという。武蔵発見の報に接して胸をよぎる、歴史の痛苦である。
(JN) 子どものころに、プラモデルで戦艦「大和」を数作った。そのころ、武蔵は作った覚えがないが、その巨大な戦艦に憧れていた。しかし、戦争と言うもの、そしてそのための武力を憧れにしてはならないはずなのに、子供のころ、昭和30年代は、戦争ものの漫画やTVドラマが結構あったのは、なぜであろうか。「コンバット」などは、本当に一生懸命、何も感じずアメリカ兵を応援していたが、但し、なぜアメリカーナは強く、ドイツ軍はカッコいいが弱いのかが不思議であった。その時、日本も戦争をしていて、アメリカと戦っていたことなどは、なかなか認識できなかった。小学校高学年になると、B29などを作り始め、父からこれが東京を焼け野原にしたとか、近所の工場跡の壁の黒さを戦争対策であるとの説明を受け、混乱をした。更には、グラマンに追いかけられた話から、防府の基地から故郷へ帰る際の何者かった広島や焼け野原の中に姫路城が美しく映った話を聞き、戦争の恐ろしさを徐々に知るとプラモデルは、レーシングカーに移行して行った。この現実の戦争体験記録、原爆の跡、朽ち果てて行く戦艦は、目や耳に伝えるために残して行かねばならない。勇猛果敢な兵士の話ではなく、その戦争のための多くの者の悲しみと破壊を忘れてはならない。愚かな官僚軍人の行動を許してはならない。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO83973200V00C15A3MM8000/