空爆が、追いつめられた彼らを蛮行に走らせたのか

(日経「春秋」2015/1/21付) 200万人という11日のパリのデモ行進、50に近い国の首脳が腕を組んで歩いた。テロを許さぬ。寛容を尊び、多様性を認めるからこそ、イスラム教徒もユダヤ教徒キリスト教徒も、あるいは無宗教の人々も、風刺週刊紙の姿勢に賛否はあっても、その違いを超えて歩むことができたのだ。その芯をへし折る行為である。悪魔の仕業といおうか。卑劣の一語に尽きる。過激派「イスラム国」の一員とみられる男が、身代金を支払わなければ日本人人質2人を殺すと脅す映像が公になった。「過激派との戦争」をうたう国々の空爆が、追いつめられた彼らを蛮行に走らせたのか。解決するためのどんな選択肢が日本にはあるのか。まだ分からないことだらけである。ただ、彼らは寛容と多様性の埒外(らちがい)にいる。こちらも寛容の衣を脱ぎ捨て、憎むしかないのか。
(JN) 多様性の我々には、それぞれに考えがあり、それを互いに理解することができず、お互いを武力攻撃するという人類の歴史は続いている。これに正義はあるのか。お互いに自分たちが正義であり、対抗者はその正義を攻撃する敵である。これでは、埒を明けることができないのである。多数派が少数派を押さえつけたり、武力や資本力あるものが力ずくでその正義を押し通せば、そのためにあの手この手で抵抗をする。それが今のテロとなって表現されているのか。理由様々あれども、テロ行為は、悪循環の最たるもの。互いに恨みを持つばかりである。しかも、このテロ行為を行っている者たちや被害を受けているのは、我々一般大衆なのである。弱き一般大衆が互いに憎みあうことは悲しいことである。この矛盾を引き起こし続けている中核を無くさない限り、私たちの犠牲は続くのであろう。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO82192590R20C15A1MM8000/