『テロに通じる発想は、「モノニナラヌ」と米国は・・・』

『テロに通じる発想は、「モノニナラヌ」と米国は示さなければならない』<2018年10月29日(月)>
 「手紙は時として、世の中や政治を動かす武器となってきた」。『筆洗』(181027)は足尾鉱毒事件を挙げ、手紙の力を考える。直訴は失敗し、<一太刀受けるか殺さねばモノニナラヌ>。でも、「足尾銅山鉱毒に苦しむ農民らの惨状を伝えた直訴を新聞が報じて、支援と同情の世論は一時、盛り上がる」。さて、米国の封筒は「恐怖をこめるなら、悪用・・・けが人などないのが救いだが、卑劣な行為である。・・・敵と味方を分ける大統領の時代の出来事にもみえる。テロに通じる発想は、『モノニナラヌ』と米国は示さなければならない。」
 (JN) 米国ではユダヤ人を狙った銃乱射や爆発物と思われる封筒がトランプ大統領反対派の主要人物に送られたり、テロ行為が続く。多様性を認め、多様な人材によって成り立っている米国だが、一方では排他的行為が続く。味方か敵か。敵は消す。こんな考えを実行犯に植え付けたものは何であろうか。自分をその任務に就けた精神的なものは何であろうか。この者たちは、どんな環境で生活をしてきているのだろうか。金銭的貧困者であろうか。精神的貧困者であろうか。情報的貧困者であろうか。それ以外か、あるいは複数の条件の貧困者であろうか。自由の国には避けられない人々なのであろうか。まともな手紙をやり取りできるようになれば、いくつかの貧困が減っていかなないだろうか。