修飾語を安直に使ってごまかすな

(日経「春秋」2014/11/11付) 「見出しを考えて記事を書け」。これが普通であろうが、かつて「見出しをつけにくいような原稿を書け」と教える人がいたという。(河谷史夫「記者風伝」)「何事も単純には割り切れるものでなく複雑だから」という理由に、なるほどと思った。きのうの日中首脳会談に、3年ぶりに両国のトップが差し向かいで会ったという以上の何を見るか、難しい。「政治的困難を克服することで若干の認識の一致をみた」。「対話を徐々に再開」。こうした修飾語を安直に使ってごまかすなというのも新米記者が習うイロハだった。会談後に安倍首相が繰り返した「関係改善への第一歩」の言はキーワードではあろうが、第二歩、第三歩を見なければ仲直りが進んだとはいえまい。記事には珍しく小欄に見出しがないのが幸いであった。
(JN) 今の政治が難しいのか、それともそれぞれの政治家の力量の問題なのか、あちらこちらを気にしながらも自分の存在感を出さねばならないので、何を考えて政治を行っているのか、当方にはわからない。政治家としての思想・哲学がないのであろうか。中国も日本も、こんな「ニセ」否「二世」の政治家が国を左右しているのか。新聞記者も大変であろう。でも、わかりにくいというのは有のではないという事は基本ではなかろうか。政治家がわかりやすく行動し、更に新聞はわかりやすく説明をしてもらいたい。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO79532310R11C14A1MM8000/