新聞は「中和性」与える議論をしているか

(日経「社説」2014/10/13付) 今週15日から新聞週間がはじまる。ことしは朝日新聞が、報道のあり方が問われる中での新聞週間となった。朝日新聞への批判にからんで、見過ごすことのできない行為が明らかになった。かつて慰安婦報道にかかわった2人の元朝日記者がつとめる帝塚山学院大(大阪府)と北星学園大(札幌市)にそれぞれ退職を要求する脅迫文が届いた事件がそれだ。脅迫で言論を封じ込めようとすることは断じて許すことができない。世の中にはいろんな考え方の人がいて、それをお互いに認め合い、自由な発言を許し、言論には言論で応じていくのがわれわれの社会の大前提のはずだ。最近、ネットだけでなく、活字の言論空間でも、「国賊」「売国」など節度をこえた非難が散見される。ヘイトスピーチ(憎悪表現)を生み出している背景には、不寛容な言説がはびこっていることもあるのではないだろうか。二・二六事件の直後、石橋湛山東洋経済新報の社説で事件への反省をこめて書き残している言葉がある。それをかみしめたい。「言論機関の任務は、極端なる議論に対して中和性を与え、大衆に健全なる輿論の存在を知らしむる点に存する。社会は現代の日本の言論機関にこれを期待することが出来るだろうか」。「新聞雑誌は過去における自己の言説行動に顧みて、自から責任を痛感せねばならぬ。しかして今後は真面目に社会の建設的批判に精進すべきである」
(JN) 新聞など言論機関にも基本精神があるが、その精神に基づき批評するが、それぞれの立場の存在を認めているから、その批評ができる。自分たちの立場の違いがあり、またその立場を認めることから、自分たちの存在も明らかになる。それが、自分達と違う存在を否定することは、人間として生きて行けないということである。人間とは、人と人との関係であり、その関係の中で互いの存在を認め合わねば人間としての存在はない。その違いを暴力行為によって、自分と違う人を消し去ろうという考えは許してはならない。これは、世間一般でも同様で、多種多彩無常のこの人間の世界では、違いが起きるわけで、それを多数側が少数の異種を抑え込んではならない。それは、小さな世界では、いじめとなって現れる。私たちはお互いの存在を弁え、建設的な社会を造って行こう。また、このような異質を押さえつけようとする考えや暴力に屈してはならない。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO78342480T11C14A0PE8000/