名をつけただけで、ものを支配することは出来ない

(日経「春秋」2014/8/7付) 大海原が広がっていた。天空から降りてきた巨大な矛が水面をかき回す。矛先から滴った海水が積もり、やがて島が出現する。・・・・・・潮がひとりでに凝り固まってできたから自凝(オノゴロ)島という。そう名付けられて国産みの島となった。命名は不思議だ。土地も人間もモノも名前がついて初めて、世の中での居場所がはっきりする。政府が158の無人島に命名した。これで島の位置づけが、これまでより鮮明になった。だが、尖閣諸島周辺で挑発を繰り返す中国などには話が通じない。すぐに、断固反対を表明した。実は、命名だけでは心細い。名称がいつも現実を裏付けるとは限らないからだ。オノゴロ島にも実在説と架空説がある。哲学者、田中美知太郎も「われわれは名をつけただけで、ものを完全に支配することは出来ない」(「ロゴスとイデア」)と指摘していた。常に島の存在を確かめ、世界に訴え続ける努力が欠かせない。
(JN) ものとは、精神がないであろうから、それに対してこちらは認識して名前を付けても、そのものは私たちを認識しないのであるから、主人にも奴隷にもならない。我々の中で、どう認識し合うかその精神が問題である。その私たちがお互いの精神を認め合わなければ、その間にあるものは誰のものでもない。それにそのものの所有を主張する私たちの精神が奴隷であれば、所有権など持ち合わせないであろう。今の状態は、例えば、尖閣諸島が主人としての主体的活動たいであり、それの所有権を主張する諸国はその主体の隷属的存在ではないか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO75348310X00C14A8MM8000/