ナマコのようによたよたしながらでも理想を立てていたい

(日経「春秋」2014/6/11付) 「流儀はいろいろありうると思うんだけども」、哲学者の鶴見俊輔さんが40年前、自分の流儀はまず単純に線を引いてしまうことであり、複雑な状況を全部考えていくと生きる信念は出てこないような気がする、と言っている。信念とは「人を殺すのはよくない。人を殺したくない。それだけの話」だという。ナマコのようによたよたしながらでも理想を立てていたい、と鶴見さんは語っていた。いま、同じ流儀で信念を持つ人がどのくらいいるかを想像する。1枚はこの国が経験した戦争という鏡、もう1枚は憲法という鏡、2枚に映る自らの姿を確かめながら生きてきた人は、稀(まれ)というほどには少なくないだろう。そういう人々の多くは鏡を眺めて、信念はまんざら頓珍漢ではなかった、と思ってきたはずである。複雑な現実を考えてみろ、それで生きられるのか――。その一撃をナマコのごとき理想に加えるのが、集団的自衛権を認めるという人たちの流儀である。信念もあろう。流儀はいろいろあっていい。あっていいが、ここへ来て安倍首相の急ぎすぎが気になる。ナマコの理想など踏みつぶして行けばいい、という話ではない。
(JN) 現実には、国家は警察を基本とし、また政治は軍隊を基本とし、これらの執行機関を国会を通して国民がコントロールするのに、閣内での決定や憲法解釈を勝手にするような国であるので、我々は昭和の前半で痛い目にあったのであはないか。我々、国民を守るためにある憲法を勝手に閣議で解釈変更されて困る。それ以前に、戦争をするかしないかの問題がある。「戦争の放棄」を国民全員がそれぞれのところで十分に議論する必要がある。これは、簡単に終わらない。そういうものであろう、それをなぜ急がねばならないのか。民主主義をまず日本で本気で浸透させて、それから「戦争の放棄」について考えるべきではないか。流儀色々、多様な流儀を相互に考えよう。頓珍漢であろうか。ナマコにはなれない。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO72563500R10C14A6MM8000/