クーデター

(日経「春秋」2014/5/24付) ヌーベルバーグの時代のフランス映画に「大人は判(わか)ってくれない」という傑作があった。フランソワ・トリュフォー監督の1959年の作品である。原題を直訳すると「400発」。無分別やらんちき騒ぎだという。400発の「発」にあたるフランス語「クー(COUP)」は、いろんな意味になる。銃の一発、剣の一突き、酒の一杯、サッカーの一蹴り、チェスの一手、箒(ほうき)の一掃きなど。この単語を世界で有名にしているのが「クーデター(国家への一撃)」だろう。タイでクーデターが起きた。8年前のクーデターのあとは、軍が政権にはとどまらないと早々に宣言、翌年の総選挙で民政に戻す筋道をつけた。その民政がごたついてまた軍が割り込む。堂々めぐりに思える。民主主義国家の政治の表舞台に戦車や銃を背景にした力がしばしば顔を出す。混乱の調停役といえば聞こえはよくても、やはり無分別である。
(JN) 安定なく矛盾を繰り返すのが、人類の定めであろうか。価値観をそれぞれに持つ多様な世界であるから争いも起きるが、賢き人類はそれを安定化させる方法として民主主義を発明した。しかし、倫理観の相違や欲望のバランスが悪いのか、民主主義が不完全であるので、そこに住む者個性に応じて矛盾が噴き出す。それを繰り返す。民主主義の前に、家族、民族及び宗教等が主体的であるので、そのそれぞれの特殊性を活かしてリーダーがバランスを取るか。名誉、富及び権力を集中させない枠組み作りが私たちには必要である。ゲームのようにエリートたちが欲望を争っているところは、紛争が続くのであろう。一発逆転では、世界を変えられない。冗長になるが、何百発もの話し合い、価値観の摺合せのための民主的な手段を取れないものか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO71717610U4A520C1MM8000/