「友達」や「フォロワー」の数だけを追う候補者が現れないか

(日経「春秋」2013/6/24付) 古い友人を持つ意義について、評論家の粕谷一希さんは、「どのような栄耀(えいよう)栄華を得ようが、若き日の旧友の眼に耐えられない人生は空(むな)しい。どのように蹉跌(さてつ)の人生であろうと、語りうるひとりの旧友が、耳を傾ける旧友が存在する者は幸福である」と。思い描くのは例えば旧制高校生だ。泥臭く築いた信頼が時を経ることで熟成し、人としての財産になるわけだ。近年幅を利かせる舞台装置がインターネット。「友達になろう」。フェイスブックなどにそんな申し出が飛び交う。「友達」になれば、互いの日記を詳しく読める。実名で日常をさらし合う中から、いずれ心を許す関係が芽吹き、老いて人生を語る旧友に育つかもしれない。これはきっかけにすぎない。理解し理解される丁寧な努力を重ねてこそ、長く強いつながりがはぐくまれるのだろう。7月の参院選からネットでの選挙活動が解禁される。当落は数の勝負とばかり、ついネット上の「友達」や「フォロワー(追随者)」の数だけを追う候補者が現れないか。考えをじっくり説明できる、せっかくの手段だ。耳目を集める過激な発言よりも、深い理解と長い関係を築く丁寧な言葉がほしい。
(JN) 投票率が50%に達しなかった都議選であったが、参議院選はもっと上がってほしい。そのためにも、ネットを利用する若者たちに投票自体も身近になってもらいたい。但し、単なる勢いの良いメッセージに引かれてではなく、長い付き合いのできる、自分たちの代表者として任すことのできる者を考えて、討論して、また考えてほしい。でも、「いいね!」の数はどこまで信用できるであろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO56547810U3A620C1MM8000/