ナショナリズムと平和が五輪で溶け合っている

  • (日経/春秋 2012/7/27付) 東京五輪は、国ごとに教科書通り行進した開会式と、国も男女もごったになった選手に肩車されて日本選手団の旗手が姿をあらわした閉会式の対照は鮮やかな印象を残した。その光景にナショナリズムと平和の問題を感じた、と言ったのが三島由紀夫だ。戦後19年、相いれないはずのナショナリズムと平和が五輪ではみごとに溶け合っている、と三島は感動を隠さなかった。後知恵だが、今日から五輪の歴史を振り返れば、三島の興奮は少しばかり早とちりで、若者の感想も分からぬでない。マラソンの表彰式の中継では、優勝したアベベエチオピア国旗でなく3位だった円谷幸吉の日の丸ばかりが映ったことに、「不公平だ」と堂々文句をつけた高校生がいたそうだ。結構ではないか。興奮する。冷めている。人さまざま、ロンドン五輪にだっていろいろ見方がある。
  • (JN)戦争をしていても、それを止めて参加するのがオリンピックであったと聞く。確かに、そのオリンピックに参加した選手たちには純粋な思い出の戦いと人間関係であろう。見ている方は、勝負の結果に対する一喜一憂である。国家は国民の心がそこへ行っている間に、裏勝負をして何かを決めてしまうのか。

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO44208720X20C12A7MM8000/