(日経「春秋」2014/6/30付) 「織田選手一等に入賞し 初めて大マストに日章旗翻る」。アムステルダムで開かれていた五輪で、日本人として史上初の金メダルを三段跳びの織田幹雄選手が獲得したときの報道だ。いまなら「織田 日本人初の金」だろう。しかし当時は優勝を「金」と表現する感覚は乏しかったようだ。金銀銅の、メダル自体への意識が膨らむのは戦後だ。五輪といえばメダルが頭に浮かび、われらが「金」の数にばかり思いを募らせてきた歳月である。6年後の東京五輪では過去最多の16個を大きく上回る25〜30個の金メダルをめざすと、文部科学白書がうたっている。中国やロシアのような国威発揚型ではなく、成熟国家ならではの穏やかで多様性を重んじる五輪がこれで構想できるかどうか。日本人が活躍しそうな場面は大騒ぎ、あとは野となれ。もっとおおらかに、もっと視野を広げてスポーツを見るなら新・東京五輪もうんと価値を増すはずだ。
(JN) 日本は、国民の人口に比して、オリンピックでの金メダル獲得数はどうなのであろう。人口は世界で10番目である。メダル獲得は10番目ではなさそうだ。私たちは、様々な競技に参加し、全てに良い成績を取ろうとするが、リリパット故、難しい競技が結構ある。抑々オリンピックとは、などと言うと鬱陶しいが、平和の祭典である。その平和をメインに、東京を中心に日本の平和への取り組みとスポーツの在り方を考えて行けないものか。また、選手個人の在り方を大事にしなければならない。私たちは試合までの選手への期待と、結果が期待通りでない時のそのあり方は品が無い。国を挙げての大騒ぎも良いが、私たちには、結果だけを追う観戦ではないあり方もあろう。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO73527950Q4A630C1MM8000/