『#銅像の「受難」が続くだけでは、未来を切り開けない』

『#銅像の「受難」が続くだけでは、未来を切り開けない』<2020年7月6日(月)>
 歴史上人物の銅像について『春秋(200706)』は思う。「日露戦争講和条約に不満を抱く庶民が明治の元勲、伊藤博文の像を引き倒し、市中を引き回す事件も起きた。・・・探検家コロンブスや奴隷商人らの銅像が次々と撤去されている。黒人や先住民への差別にかかわった人物だと落書きされたり海に投げ入れられたりしている。・・・ルーズベルト大統領の馬上像・・・これがほかの事例と違うのは、市民を巻き込んだ議論が何年も重ねられ、意見交換を促す展覧会まで開かれた末の決定だったことだ。像は取り払われるが、歴史認識をめぐる対話の努力は次代に引き継がれるだろう。差別を象徴し是認することはあってはならないが、銅像の『受難』が続くだけでは、未来を切り開けない」。
 (JN) 歴史上の人物の評価は、場所、時代、考え方等、様々な条件で違ってくる。嫌なものが街の真ん中や上から見下ろすように存在するのは許せないと言う気持ちはわかる。しかし、怪しからんと倒してしまうのはいかがなものか。暴力的な方法ではなく、ニューヨーク自然史博物館のように対話が必要だ。人間には感情が大事だが、その感情を如何にバランス良く発揮するのが人間の力でしょう。そして、その歴史の意味を考えたい。
#銅像はつらいよ
#差別の象徴
#Statue

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