『成人になる試練、縄文時代には抜歯』

『成人になる試練、縄文時代には抜歯』<2018年3月14日(水)>
 「縄文時代には男女共に抜歯、つまり特定の歯を人為的に抜く習慣があったという・・・何のためだったのか。有力なのはやはり成人になる試練だったとの説のようだ」。『余録』(180314)は成人年齢を18歳に引き下げるに当り、意見する。「この改正でローンやクレジットを含め、18歳になれば親の同意なしに契約できるようになる。すでに選挙権のある『18歳以上』だから、市民たる法的権利は持って当然だろう。ただそのための消費者教育、市民教育は欠かせない。一人前になるためにくぐり抜けてもらわねばならぬ試練は今もある」。
 (JN) 人それぞれに心と体の成長は異なる。一概に成人は18歳からとするのはおかしいが、ここは法律の下にある社会ゆえ仕方ないのであろう。この成人というものはいったい何であろうか。法律上は、これこれと記されようが、そもそも成人ってなんであろうか。心身とともに、経済力も大事になろうか。独立して家族を持つことか。責任が自分に伸し掛かってくる。結構大変なステップであるが、自分はそんなことを20歳の時に考えていたろうか。まだ親の脛を齧っていた。況しては家庭を持つなど、遥か先になってしまった。ここは、縄文時代のように18歳になったら、その証として抜歯ではないが、地域ごとに皆の前で証の誓いを立てるとか、数カ月の旅に出て修行を積んで報告会をするとか、してはどうだろう。大学の入学を半年遅らせて、18歳の体験ができないか。このままでは、ただ成人年齢が20歳から18歳になるだけである。日本の住む者が自分と他人を意識する機会を成人となる法律上の年ににできないものであろうか。