『生きるとは何かを失っていくこと。失いながら大事・・・』

『生きるとは何かを失っていくこと。失いながら大事なものを感じられるようになること』<2018年2月15日(木)>
 「『縁側フォーラム』というイベントが先月、静岡市で開かれた」。『余録』(180215)はこれを紹介する。テーマ「生きるとは何かを失っていくこと。失いながら大事なものを感じられるようになること」。3年前に筋萎縮性側索硬化症を発症した真下貴久さんは「人生は無限だと思っていたが、今はどうやって生き切ろうかと考え、生きている実感を強く求めるようになりました」という。「絶望から真下さんを救ったのは、先輩の患者のブログだった。『なあ、こうやって生きれば楽しいよなあ』。人生には限りがあるという現実に直面して真下夫妻の日常は変わった。『おれはプラチナチケットを手に入れた。普通に生きていたら体験できないことをさせてやる』。2度目のプロポーズだった。『初めのより100万倍もすてきでした』と妻は笑う」。
 (JN) 親が亡くなり、寿命というものを身近に感ずるようになった。自分はあと何年生きていけるのか。親は戦中戦後を生き抜いてきた強い心身の持ち主であったが、当方は成長期に汚れた空気の中で生活し、怪しげな加工食品を食べ、夏は汚染された河川で泳いでいた体である。急にどこかがおかしくならないか。特に、60歳を過ぎ、微妙なコントロールができなくなってきている。何を失っているのであろうか。色々と失ってきたが、まだ自分の命を失っていない。でも、真下さんほどにその迫ったものではないが、感じるところである。あと20年何ができるであろうか。親不孝者としては、親にできなっかことを諸先輩方々に恩返しできないか。自分やりたいことを体験していこうか。否、嫌われるかもしれないが妻に尽くすことであろうか。これけらも、仲間や仕事など、様々失っていくのであろうが、その分を何かに変えて行く姿勢を持って体験の旅に出よう。