『歴史の検証はもとになる史料があってこそだ』

『歴史の検証はもとになる史料があってこそだ』<2017年2月28日(火)>
 台湾の「二・二八事件」について、近年、その犠牲者の情報が明らかとなってきているが、その加害者の究明がまだである。これについて「春秋」(170228)は、「関連する公文書の機密解除につとめる考えも明らかになり。過去と向き合い、人々の和解をめざす取り組み、といえようか。いうまでもないが、歴史の検証はもとになる史料があってこそだ。当局が公文書を残していなければ、難しくなる。ひるがえって日本である。自衛隊南スーダン派遣部隊の日報をめぐるドタバタ。大阪府豊中市の国有地の売却に関する交渉記録の破棄。歴史の検証に堪えようという気概は、霞が関からは伝わってこない。」
 (JN) 記憶は消えてしまうし、変化することもある。記録は故意に消さない限り、変化することなく存在し、またその現象の証明者となる。良い事であろうと、不利なことであろうと、記録を残し自分たちを守る。これは、仕事をしている 者であれば、わかっている事である。70年前の台湾での2月28日の出来事であろうと、記録した人はいるから、その保管されている内容を明らかにされて行けば良いのであろう。一方、ここ数年の日本人の行動の日報や交渉の記録が無くなっていると。そんなことはあろうか。仕事の忠実な人が記録し保管しているであろう。何を隠そうとしているのか。とにかく、私たちの仕事が歴史的な問題になるかはわからぬが、自分たちがいなくなっても、それまでの情報がわかるように記録し保存をして行かねばならない。それは当たり前だ。