『どんな「平和の哲学」を創ることができるだろう』

<2016年9月23日(金)>
『どんな「平和の哲学」を創ることができるだろう』

 「西田幾多郎は、『哲学の動機は…深い人生の悲哀でなければならない』と記す」。「春秋」(1609/23)は「『深い悲哀』は世界に満ちている。その渦中で最もあえぐのはシリアの人々だろう。大国や各勢力が角を突き合わせるさまは、時計の針が逆戻りしたかのような、領土や権益の奪い合いを思わせる。国外に逃れた人たちは480万人を超えたという。受け入れ側をも揺るがす事態だ。未曽有の内戦に翻弄される人々に寄り添い、どんな『平和の哲学』を創ることができるだろう。我々の思慮が試されている。」

 政治の争いの中で、庶民は苦しみ命を落して行く。グローバルな政治勢力から民族対立まで、なぜ戦争という形をとらねばならないのか。またそのために難民が生じる負の連鎖を何とも思わぬのか。権力者たちが戦争に庶民を巻き込むことなく、自分たちだけで戦え。自分たちがバランスを崩した後始末のために、庶民の血を流すことは無能ゆえである。彼らの頭脳には、人を殺傷することしかないのであろう。自分たちの家族を失うのは庶民であり、彼らは後ろで駒を動かすという哲学である。この愚かな考えをこの世から消し去らねばならない。(JN)