『わたしにできるのは男の子の叫びを世界に届けることだけだ』

『わたしにできるのは男の子の叫びを世界に届けることだけだ』
 シリア難民、私たちには何ができるのか、日経「春秋」(2015/9/8付)は私たちに呼びかける。「沢田教一の『安全への逃避』、ベトナムの戦火を逃れようと、幼い子らを伴って必死に川を泳ぎ渡る母子の姿をとらえた作品は衝撃的だった。写真はときに人々の心をわしづかみにする。アンリ・カルティエ=ブレッソンロバート・キャパの作品は時代を経てなおも鮮烈なのだ。そしていま、ニリュフェル・デミアさんの撮った光景が中東の難民問題を告発してやまない。赤いシャツに濃紺のズボンの男の子が、波打ち際で息絶えている。画像は欧州などの指導者を動かし、各国は難民受け入れへとにわかに議論を始めた。それでは日本に何ができるのか、なおのこと答えが見いだせずもどかしい。『わたしにできるのは男の子の叫びを世界に届けることだけだ』とデミアさんは自社のサイトで語っている。あのベトナムからこの中東へ、悲鳴のやまぬ地上を恨む。」
 パックスアメリカーナにおいて、私たちは比較的安全な暮らしができ、経済成長を遂げてきた。私たちのこの生活は、孤立した日本列島の中で達成できるのではなく、世界中の人々と直接にあるいは間接的に影響し合っている。自分たちに関係ないと思われる悲劇が実は関係している可能性がある。悲劇が起きるのは、弱いところにである。犠牲者は、世界における弱者に起きる。その悲劇を他人事と知らん顔せず、できる範囲内で手を差しのべることが日本でも必要である。我々個々人は、それすら難しいが、せめて声だけでも発したい。そのためには、互いを想う心である。私もそれすら弱い。例えば、列車内におけるお互いの譲り合いの心も乏しい。これを何とかしたい。それに、この日本列島から何時、避難しなければならないことがあるかもしれない。そんな時、弱者に冷たい日本人、金を使っても受入場所がないかもしれない。(JN)