名づけに、漢字は今や、その起源や来歴から隔絶された

名づけに、漢字は今や、その起源や来歴から隔絶された
 最近の名づけの漢字の利用について、伊東ひとみさんのイメージ優先の「感字」と化したとの分析を、朝日「天声人語」(2015年7月6日)は紹介している。
 「古代、女性にその名を問うことは求婚を意味した。名前にはその人の魂がこもり、名乗ることは魂を相手に渡すこと、結婚を受け入れることだったという。確かに名前には不思議な力が宿る。作家三島由紀夫の本名は平岡公威。もし本名で書いていたら、あの若さで死を遂げることはなかっただろうというと。名づけには子どもの幸せを願う親の愛が映る。世の中にたった一つという個性の追求も昨今は当たり前だ。自由奔放な読ませ方に目をみはる。文筆家伊東ひとみさんの近著『キラキラネームの大研究』によれば、漢字は今や、その起源や来歴から隔絶され、イメージ優先の「感字」と化したのかも知れないという。当節の名づけの特徴と歴史的背景を分析して鋭い。」
 子どもが生まれる度に、名前を考える。親としての責任を感じた一つの作業である。この子に対する親の勝手な思いからスタートする。健康で、聡明で、人望篤く、・・・・。思い多ければ文字数が多くなる。でもそれは、面倒であろう。自分と同じ一文字にしようか。この文字の意味は、どうなのだ。生まれる前から、数か月に亘り悩みに悩む。まさに、「名づけには子どもの幸せを願う親の愛が映る」のであるので、名前を付けてその苦しみと期待を知る。自分の親がその時、どんな気持ちで名付けたのかをも思う。それから二十数年、時代とともに、親の感覚も変化し、子への期待も変わってきたのであろう。漢字に対する理解も、漢字というその絵について、その絵の出来上がったその意味よりも、今の感じを大切にするようになったのはなぜであろうか。それは良い「感字」なのであろうか。