財政節度のタガが外れた末に国民が被るツケを、文明の国が見せつけて

 ギリシャの債務問題から、朝日「天声人語」(2015年7月7日)は、振り返って我が国に警鐘を鳴らす。
 「古代のギリシャプルタルコスは、借金を戒めながら、貸し手のあくどさを叩く。『金貸しどもは、不幸な借り主を不逞の輩扱いし、市の広場を公然とその懲罰の場にして、禿鷹のように彼らを食らい……』と筆は怒っている。ギリシャ市民は、貸し手である欧州連合(EU)などの求める緊縮策の受け入れに、厄介者扱いの上に言いなりはまっぴらだと、自尊心が燃えた。危うさを知りつつユーロ圏に引き込み、莫大な金を借りられる『信用』を与えたEUにも責任はあろう。財政節度のタガが外れた末に国民が被るツケを、文明の国が見せつけている。我に返って足元をみれば、この国の借金は1千兆円を超す。彼我の国情は違うが、『何とかなるだろう』といった根拠のない楽観は禁物だ。警報に使われるサイレンの語源はギリシャ神話に由来する。わが空に鳴り響いている警報も、もはや半端な音量ではない。」
 付けは、信用で成り立つ。その分の返却と利益を得られるからつけが成り立つ。例えば、日本の高度成長のころ、サラリーマンは借金をして、家を買いその借金を返すために働いていた。そのころは、日本は成長するし、自分の所得も上昇するという確信があり、借金ができた。ところが今では、ギリシャであろうと日本であろうと、借金を返すための借金を繰り返し、返済の見通しが立たない。我が国の借金は、1053兆円、国民1人当たり830万円まで膨れ上がっている。なんとかなるのであろうか。よくぞここまで貯めたものである。個人であればとてもこんな行為はできない。国家に奉仕する者たちは平気で他人事のように借金ができるのか。皆でやれば怖くないのか。無責任という信用がこの世界では通用する。危険を知らせる警鐘は鳴り響いているが、それが聞こえることはない。