歴史に見る通り、一度失った自由は容易に取り戻せない

歴史に見る通り、一度失った自由は容易に取り戻せない
(朝日「天声人語」2015年5月3日) 時代の変化に的確に対応することは難しい。将基面貴巳さんが昨年出した『言論抑圧』が描く戦前日本の姿だ。東京帝大教授だった矢内原忠雄は1937年、軍国化を進める政府に批判的な論文を書き、辞職に追い込まれた。当時のような危うい変化の時を、今まさに迎えている。そんな危機感から、「学問の自由を考える会」が先日発足した。国立大学の入学式などで国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう文科相が「要請」するという話が出て、大学教授らが立ち上がった要請は必ず圧力になる。式自体も教育の機会であり、今回これを認めれば、政府が研究の中身にまで口を出す突破口になりかねない、と。大勢順応や付和雷同とは対極にある営みだ。大学に無神経な同調圧力を加えるなら、創造的な成果を生む芽を摘んでしまわないか。憲法は学問の自由を保障する。歴史に見る通り、一度失った自由は容易に取り戻せない。きょう、改めて心に刻みたい。(勝手な抜粋)
(JN) 憲法解釈は難しくあるが、それなりに各自で思っていいのではないか。そこで私が考えるに、「学問の自由」から、国立大学の式典における国歌斉唱の要請に対して、意見するのはどうなのであろうか、と疑問に思う。私の頭ではこれを繋げることができない。思想、良心、宗教、信条等から自由を訴えるべきではないだろうか。確かに、戦前のあの世の流れを想うと、反対をしたいところである。なるほど、式典の教育の場であるのか。また、連帯は大事だ。でも、これは、それぞれの国立大学の中において、国旗掲揚や国歌斉唱について議論し、それぞれの大学が個々に対応すべきこと。一斉の横並びにする必要はないのではないか。また、そのある大学が国歌斉唱をしようと、それに賛同できない者は、斉唱しなければよいのではないか。或いは出席しなければよい。皆が同じである必要はない。但し、無理やりの強制がある場合には、それはまた違った角度から、意見を申していかねばならないであろう。とにかく、日本はそろそろ、右へ倣え、左に倣えを終わりにできないか。日本国憲法は、私たち国民を守るためにあるはずだが、それをそれぞれの国民が理解し、それぞれが疑いまた信じて行かねばならない。右も左も真ん中も、簡単に信じて流されてはならない。しかし、流され続ける私たちは、自由を得たことがあるのであろうか。