まっさらな顔で始まった1年

(朝日「天声人語」2015年1月1日(木)) 「蒲団(ふとん)から首出せば年の明けて居る」(正岡子規)。時間とはありがたいもので、荷車を押すように力を込めなくても流れてくれる。明けて新春。365日、8760時間の1年がまっさらな顔で始まった。「十二月三十一日、敵ありて味方なし。一月一日、味方ありて敵なし」(斎藤緑雨)。昔は大みそかになると掛け売りの集金人が押しかけてきた。世間も忙(せわ)しく、ざわついている。それが、わずか数時間寝て目覚めれば、めでたい元日に切り替わっている。毒舌にして貧乏暮らし。敵も借金も多かった緑雨だが、年あらたまる朝の、昨日と違う淑気(しゅくき)は、いまの時代も変わらない。見慣れた景色もどこかきりりと引き締まり、いつもと違って見えるから不思議である。遠い春を抱くように万物が静まるときは、思えば新たな年の始まりにふさわしい。まっさらな顔で始まった1年を、私たちはどんな表情で振り返ることになるのか。できるならそれぞれ、眉間(みけん)のしわより目尻のしわが刻まれんことを。笑う門には、福も来る。
(JN) 生きている以上、時から逃れることはできない。待ち遠しくても、来て欲しくなくても、来てしまった正月、さて、今年はどうしようか。なんとなく起きてきた家族と挨拶を交わし、お餅をいただく。酒が飲みたいが、12月の行動に問題ありと、ワイングラス一杯のみ。親に電話をし、それなりの健康に感謝する。妻の友人から正月早々、宅急便が届く。なんと、餅である。搗き立てがそのまままるごとビニールパックされている。切って粉を塗すこととなる。まだ柔らかく、切りやすかったが、包丁に餅がつき、洗うのに苦労し、少々怪我をする。とりあえず、家族と近くの神社へ出かける。粉雪舞う中、賽銭箱の前で、妻や子供たちは、何を約束しているのか、願っているのか。信心の無い私はこの寒さの中をわざわざやって来る人々の観察し、包丁の洗い方に反省をする。昼食を帰り道のレストランで。ふと思う、例年の通りの流れだが、神社もレストランも人がいつもより少ない、なぜであろうか。世間の動きが変わったのか。家に帰り、年賀状に目を通す。60歳になった友人たち、健康を祈る文面多し。若い連中の家族写真は良い、お父さんに似て悪さしそうだ、お母さんに似て美人になりそうなどと、ほくそ笑み、楽しく拝見する。それぞれの家庭に福来れ。
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