安倍政権も、野党も、有権者も、責任がある

(日経「春秋」2014/12/15付) 半世紀も前だが、正面に少女を描いた明治の粉ミルクの缶があった。絵の少女は同じ缶を手にしていて、その缶にも少女が描いてある。その少女も缶を持ち、そこに少女が……。ずっと続いていく絵柄を自ら政治に向き合う姿に重ねていたのが作家の井上ひさしである。「ぼくもいまは左ふうのことを言っているんですが、左が世の中をとったときに、やっぱりそれにも反対するだろうと思うんですね」。応援する勢力が勝ったらまた違う方に回ってもの申す。それがとめどなく続いていくイメージだという民主主義とは? エドウィン・ライシャワーは「一般国民による政府の統制をできるだけ平等かつじゅうぶんに許す政治制度」と定義した。この衆院選投票率は過去最低だという。国民による統制はじゅうぶんには働かなかった。そういうよりない。「いまなら勝てるから」と師走選挙に踏み切った安倍政権も、政権に思うがままを許した野党も、「棄権」という名の権利を謳歌した有権者も、民主主義には責任がある。国民が政府を統制する機会は選挙以外にもあろう。そのために井上ひさし流である。「とめどなく批判し、疑うことをやめない精神」である。
(JN) 若人ほど、投票率が悪いようである。なぜ、そのような状況になっているのか。なぜ、選挙権を放棄するのか、明治時代より民主化運動により、その血と汗と涙で得たこの権利を放棄してはならない。常に私たち一般大衆は自分たちの生活を維持するために働くとともに、自分たちの代表者を立法へ送り込むことを忘れてはならない。この世の中、良い人の良い人民による良い人のための政治とはならない。だから、民主主義などと言うめんどくさいものが作り上げられてきた。皆が良い人なら、お任せで良いのであろうが、頭を下げれば禊が終わったというような社会では、危険極まりないであろう。こんな繰り返しが、日本では永遠に続くのであろうか。否、そうならないために、井上ひさしのように「とめどなく批判し、疑うことをやめない精神」を持ち続けよう。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO80908400V11C14A2MM8000/