投票率が最低という危機

(朝日「天声人語」2014年12月16日) 赤坂真理さんが『愛と暴力の戦後とその後』で、そのころを描いた漫画に出てくる空き地には、決まって土管が3本、ピラミッド状に積んであった、と。赤坂さんは、そんな光景を現実には見ていないというが、懐かしく思い出す世代は確実にいる。校庭でもなく、公園でもない。自由で不思議な魅力の空間だった。衆院選投票率が52・66%と戦後最低になり、土管のある空き地を連想した。「与党」という所有者のいる土地には入りたくない。今回、そう感じて棄権した人々が多かったのではないか。2009年の衆院選では政権交代の4文字が有権者を引き寄せる土管と空き地の役割を果たした。それが失敗に終わり、一昨年の前回選挙から今回へと、投票所離れは深刻化する。このままでは民主主義の危機を招きかねない。足を踏み入れたくなるような空き地を用意するのが政党の仕事だろう。それは結局、理念と政策であり、政権を担う力だ。この作業を、とりわけ民主党は怠った。空き地とは〈誰にも属さない、ゆえに誰にでも開かれた〉場所だと、赤坂さんは書く。それをみすみす閉ざすことのないよう願いたい。
(JN) 私の単純な脳味噌には、投票に行かない人の考えがわからない。行けない人は、仕方ないであろうが、なぜ行かないのか。確かに、魅力のない候補者の中から自分たちの代表者を選ぶことは、無用なことをするようである。しかし、日本を民主主義の国とするためには、最低限の権利と義務である。「足を踏み入れたくなるような空き地を用意するのが政党の仕事だろう。それは結局、理念と政策であり、政権を担う力だ。この作業を、とりわけ民主党は怠った」とあるが、彼らは別にそれでも良いのであろう。議員としてやって行けるのである。しかし、我々一般市民は、そんな政治家では困るはずだ。選ぶ人がないと文句を言う者は、選ばれるべき人を担ぎ上げるなに、自分が出るなりすべきである。魅力ある政治家を作るのは、魅力ある市民である。行きたい空地は、もう日本にはない。その空地をこだわるより、他に方法があるはずである。
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