民主主義の国だってメディアは危うさをはらんでいる

(日経「春秋」2014/9/5付) そこにいた記者のほとんど全部がウオツカなどで酔っ払っていた。酔い泣きに泣いている者までいた。「プラハの特派員がこの侵入と弾圧はよくない、と打電してきているのに、その正反対を書かねばならないからだ」。1968年の「プラハの春」をソ連が戦車で蹂躙(じゅうりん)したあと、モスクワでソ連共産党機関紙プラウダの編集局を深夜ひそかに訪ねたときの光景を、作家の堀田善衛が書き残している。朝日新聞が一度は掲載を拒んだジャーナリスト池上彰さんのコラムを、「判断は適切でなかった」という謝罪とともにきのう載せた。その間、朝日の記者たちがインターネット上に実名で意見を公にしている。「掲載拒否」に「はらわたが煮えくりかえる」、掲載後は「拒否した理由がますます分からない」というふうに。慰安婦報道に対する朝日の検証を、池上さんは「遅きに失した」「謝罪もすべきだ」と批判した。なぜ記者の心根とかけ離れた方針になったのか。民主主義の国だってメディアは危うさをはらんでいる。
(JN) 記者の精神は平等であるが、新聞社は記者だけでは構成されていない。こういうことは、不都合に対して起きることであるが、あの朝日が慰安婦報道への手落ちと同じようにおかしな行動に出たのか。「もう朝日新聞は、朝日ではない」、と言えばお前は今頃気づいたのかと笑われてしまう。メディアは、誰の味方と言うのではなく、如何に現実をわかりやすく報道するかであり、そこに解釈が入るが、その解釈は偏ろうが、現実は速やかに正しく伝えねばならない。池上さんが書いたコラムが後日、そのまま記されたとしても、そこには時間と言うフィルターがかかってしまっている。朝日は「遅きに失した」。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO76653980V00C14A9MM8000/