住まい方にも工夫を凝らしてきた歴史を忘れるな

(日経「春秋」2014/8/21付) 「浜の真砂(まさご)」といえば古くから数がおびただしいことのたとえだ。万葉集をひもとけば「八百日(やほか)行く浜の真砂(まなご)も我(あ)が恋にあにまさらじか沖つ島守」という歌がある。記録的な豪雨による土砂崩れで大きな被害が出た広島市の住宅地は「まさ土」と呼ばれる土壌の上にあった。花こう岩が風化してもろくなった地質を指すという。今回と同じ地域では15年前の夏にも土砂崩れが発生し、たくさんの人が亡くなった。豪雨で地表の「まさ土」が崩れ、それを引き金に次々に大きな崩落が起きる――。そんなメカニズムが指摘され、警告が発せられていたのだが悲劇は繰り返された。宅地開発のありようも避難体制も、あらためて問われなければなるまい。万葉の恋歌を生んだ美しい島国は、古代から天変地異とのたたかいに明け暮れる災害列島でもあった。その経験を糧に自然との兼ね合いを見いだし、住まい方にも工夫を凝らしてきた歴史を忘れるなと、こんどの惨事も教えているのかもしれない。そう胸に言い聞かせるにもつらすぎる犠牲の大きさ痛ましさであるのだが。
(JN) 我が国は、平らで安定したところがない。従って、その地域の特質を十分に考慮して、住める所にその自然に反することなく、その建物はそこと和して存在している。ところが、その昔は、そこでも和していたが、周辺がどんどん西洋思想に基づいて整備がされて行き、その抵抗力を超えた場合に惨事が大きくなる。自然災害との戦いが人類の歴史でもあり、そこは日本人は自然との調和であったのに、西洋文化を取り入れてからの日本は、その不備にもかかわらず安全神話が生まれる国となってしまった。事故は起きるのであるから、その前にできることをして被害を最小限にすることができないのか。過去の経験を無視し、早めの避難を呼びかけない、そんな行政は、住民の安全より何を優先しているのであろうか。私たちは、自分たちで住まい方の工夫をしなければならない。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO75939810R20C14A8MM8000/