(日経「春秋」2014/7/28付) 東京・丸の内の三菱一号館美術館で開催中の回顧展でみた画家ヴァロットンの代表作「ボール」だ。この絵をはじめ、独特で多様な表現、どこか謎めいた作品群に引き込まれた。展示ケースに「にんじん」の初版本(1894年)を見つけた。小説は仏作家ルナールの出世作。自伝的な物語は挿絵よりほろ苦い。赤毛の少年は家族からもあだ名で呼ばれる。難題を押しつけられる。親から筋違いの怒りを浴びる。逆襲するとひどい折檻(せっかん)が待っている。笑いの後にくる切なさ。今なら虐待にあたりそうだが、「にんじん」は「おとなの愚劣さをあざ笑い」(岸田国士)ながら人間として成長していく。児童虐待が増え続けている。報道のない日がないほどだ。ストレス社会のつけなのか。相談件数は十数年で6倍近い。対策は手詰まりぎみで社会全体で防ぐしかなさそうだ。小説と異なり映画版は父親とのほのぼのとした和解で終わる。親子が接する機会が増える夏休み。そんな姿があちこちで見られればと想像してみる。
(JN) 児童虐待がなぜ起きるのか。それは、それぞれのケースごとに異なった理由があろう。簡単に一つの方法で対応ができない。また、虐待を受けるのは弱者ゆえ、発覚が遅れてもう間に合わない場合もある。児童だけでなく、ストレスは弱いところにしわ寄せが行く。私たち未熟な人類の宿命なのであろうかと、諦めてはならない。特に親子関係、子供にとって親しか親はいない。その親に無慈悲にいじめを受けるこの状況は連鎖反応を生む。この連鎖を断ち切るにはどうるれば良いのか、例えば、日本であれば、日本に住む者全員が考えることからである。うちには無いとせず、家庭内、ご近所、地域等でその現状を共有できないであろうか。机上の絵空事であるが、まずは、それぞれに自分自身の考えを持つことであり、お互いにその存在と考え方を認め合い生活したい。親子であり、家族であり、地域であり、皆で。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO74839400Y4A720C1MM8000/