「自由への希求」

(日経「春秋」2014/6/28付) 100年前のきょう、ハプスブルク帝国の皇太子がサラエボで暗殺された。25年前に訪ねた現場には、19歳のセルビア人青年がここで発砲したという足形があった。足形には、暗殺を「自由への希求」とたたえるパネルが添えられていた。しかし、それぞれの民族はだれにも邪魔されず、そしてだれも傷つけずに運命を決められるのか。ヨーロッパのこの100年は、その問いかけにノーと応じているように思える。じつは、足形はもうない。民族間の内戦のさなかに壊され、複製が博物館にある。セルビア人を顕彰するものが目につくのをほかの民族が嫌ったためという。足形ならそうして博物館に収められる。民族紛争はどうか。ことしになってロシアがクリミアを併合した。こちらは博物館には到底入れられぬ目の前の現実である。
(JN) 世界的な破壊と殺戮の端緒となった100年前のサラエボ事件、ある青年たちの行動は時代の波の中で、ヨーロッパの壁にくさびを打ち込み、帝国主義の激流が世界中に流れ込み、現在の資本主義グローバル時代に進んでいった。この流れは、私たちの命、自由、民族、宗教などを悉く呑み込み、ヒットラーチャーチルムッソリーニド・ゴールスターリンなどを吐き出し、無差別爆撃、原子爆弾の使用の実行などで1945年に停戦を迎えた。その後も、地域間での殺戮は続き、暴力行為に暴力行為で対抗している以上終わりを知らない。国家は、国民をコマにしてゲームをしているのか。人殺しを喜んでいるのは、いったい誰なのか。100年ぐらいでは人間は進歩しないようである。日本は、敗戦後、数々の地域戦争の恩恵を受けての経済成長もあった。実際は人殺しをしていなくとも、かかわりを持っている。自分たちだけの平和ではなく、皆の平和を願いたいが、自衛隊はどうなるのであろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO73473950Y4A620C1MM8000/