天安門事件を見直せない中国の危うさ

(日経「社説」2014/6/4付) 中国の民主化を訴えた学生たちを共産党政権が武力で制圧した天安門事件から、きょうで25周年だ。民主と自由を求める声は絶えないが、共産党政権は力で抑え込む姿勢をむしろ強めている。その後は事件に関する情報を厳しく統制し、いまや20代以下の若者の多くは事件についてほとんど知らないのが実情だ。一方で当局は、事件の評価見直しを求める人たちを迫害してきた。拘束された活動家たちは50人を超えたという。技術革新や産業構造の高度化による生産性の向上がこれからのカギだ。公平なルールに基づく透明性の高い経済運営や、人々の創意工夫を引き出せる自由な環境が必要になっている。対外政策にも天安門事件は影を落とす。国民の福利向上と世界の安定に意を注ぐときだろう。天安門事件の評価を見直すことは、その第一歩となりうる。当面、共産党政権が高圧的で強硬な姿勢を改める可能性は小さい。そう想定して日本は中国と向き合っていかなくてはならない。安全保障で隙を見せない。経済で中国リスクに目を配る。何より、中国を責任ある大国へと促すための対話が、大切だ。
(JN) 1989年は、一つの転機の年であったが、中国はどうであったのであろうか。あれから四半世紀、確かに中国は変わった。経済大国の道を歩んで膨れ上がって行った。共産党という、宦官グループが、資本も、権力も、名誉も、牛耳り帝国を動かしている。毛沢東周恩来は、どこへ行ってしまったのか。国家主義共産主義は、他国の人民など、押しつぶしても良いという勢いだ。否、自国の国民も、共産党の言うことを聞かなければ、押しつぶしても良い。正に、天安門で若者を殺戮してから、これは解禁されたのか。この巨大な国、眠れる獅子は、寝相が悪く、あちらこちらを蹴飛ばしたり、寝小便をしている。中華思想は、今後も続くのか、汚職宦官制度は直らないのか。弱者を犠牲にする共産主義はどこまで続くのか。自由なくして、国民を成長させ更なる経済発展はない。孫文は、こんな中国を想像していたであろうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO72236150U4A600C1EA1000/