理不尽。特定秘密保護法ができれば、なお募ることになるのか

(日経「春秋」2013/11/18付) 駐留米軍憲法違反だと断じた判決があった。1959年3月30日東京地裁。裁判長は伊達秋雄。世に「伊達判決」と呼ばれる。その後、裁判は高裁をとばして最高裁に直接上告され、同じ年の12月16日、全員一致で覆されることになる。日米で公開された政治外交文書で、日本側と在日米大使館の折衝のあれこれが分かってきている(「砂川事件と田中最高裁長官」布川玲子ら編著/日本評論社/2013年11月15日)。伊達判決の2日後、藤山愛一郎外相はマッカーサー駐日大使とひそかに会った。大使館が本国の国務省に発したマル秘電報と、外務省が残した極秘の会談録がぴたり符合している。ところが、当時の田中耕太郎最高裁長官が裁判の見通しなどを米側にもらしたという記録は、米公文書館にあるだけで日本ではみつからない。最高裁長官の振る舞いは日本の司法の独立にかかわる。これまでも、米国の資料でしかこの国の重大事が知れぬもどかしさを何度も味わった。このもどかしさ、理不尽。特定秘密保護法ができれば、なお募ることになるのか。
(JN) 秘密情報の保護とはどこまですべきなのか、国家が何のためにあり、司法はどうあるべきかは言うまでもないが、この現状を我々は認めて来て、更に今後、それを強化しようとする人々を選んでしまった。輿論はどこまでこの暴走をくい止められるのか。原発の在り方とともに私たちは、もう少し市民としての自覚を持って様々な選択をして行かねばならない。でも、そうしたくても秘密裡に選択の余地が亡くなる国になってしまうのか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO62731580Y3A111C1MM8000/